孤独の読書

考える。生き残るために

結果と過程

評価基準

その人のくだす評価基準が、

結果を重視するのか、

過程を重視するのか?

という話だ。

 

先に結論から言えば、

”どっちでもない”といえる。

冷静な思考の人は、

そう認識できる。

 

しかし残念なことに、

多くの人はそこまで

認識できない。

 

みんな自分のことで

毎日いそがしいから。

 

これを自己中心的という。

でもそれがふつうだ。

だって多くの人が「そう」だから。

 

多くの人は「結果」を求める。

はやく結果が欲しい。

はやく結果にたどり着きたい。

 

なぜなら、そうすれば

時間が短縮できるから。

時間は大事だ。

 

失った時間は、戻らない。

それは正しい。

筆者も賛同する。

 

しかしそれは、

「部分的には正しい」といえる。

つまり「全部が正しい」とは

思わない。

 

ようするに、とおまわり

したほうが、結果として

本人のためになることだって、

じゅうぶんにあるのだ。

 

はやく成功することが、

はたしてそんなに良いことか?

 

カンタンに成功を手に入れた人は、

自分がなぜ成功したのか、

分析を行うだろうか?

 

おそらく、分析は

しないだろう。

 

現状に満足して、

ライバルたちに追い抜かれるのが

目に見えている。

 

「型」をやぶる

型破り、という言い方がある。

型破りというのは、

その前提として、「型」がある。

 

それを「やぶる」のだ。

つまり、型なくして、

型破りはできない。

 

つまりは、先に型があるのだ。

 

小学校の算数のかけ算では、

”かける数”と”かけられる数”

というのをならう。

 

たとえば、

「ミカンが6こずつ、3枚の皿に

並べます。ミカンはなんこいりますか?」

 

みたいな問題。式と答えは、

6×3=18

必要なミカンの数は、18こだ。

 

カンタンに思うだろうか?

たしかに、問題のときかた

自体はカンタンだ。

 

しかし、この式を、

「3×6」としては、

マチガイなのである。

 

は?

と思うだろう。

 

大人であれば、かけ算なんか

どちらから計算しても、

答えが同じことを知っている。

 

というか、九九表を見ても、

同じことが分かる。

 

しかし、文章問題では、

バッテンをくらうのだ。

 

なぜか?

 

それは、”文脈に合ってないから”。

 

くわしい解説は割愛するが、

とにかく、

 

「答えがあってさえすれば、

途中式なんかどうでもいい」

というのは、マチガイ

というのが、これでわかる。

 

言いかえれば、

途中式こそ、たいせつなのだ。

 

”いったいどうやって、

この答えにたどり着いたのか?”

そこが重要だ。

 

現実の限界

しかしそうはいっても、

たとえばマークシートなんかは、

塗りつぶしになっている。

 

途中式が手書きでかけない。

つまり”言い訳がきかない”のだ。

 

いやまてよ、これは見かたを

変えれば、「途中なんてどうでもいい」

ということの、裏返しではないか?

 

”結果のみあってればOK”の

考え方は、長期的に見れば、

その人あるいはその集団の

ためにならない。

 

なぜなら、その「結果」とやらが、

どうやって手に入れたのか、

誰も知らない、気にならないから。

 

たとえば、激安食材。

いったいどこから、来たのだろう。

原産国は?

 

・・まぁいっか。安いし。

これで、いいのだろうか?

 

 

もちろん、選択の自由がある。

なにをどう選ぼうか、それは

カネを出す人の自由だ。

 

結果重視派=さんま、

過程重視派=紳助

結果を重視する傾向にある人は、

途中なんてどうでもいい。

 

いや、正確に言えば、

ほんとうは、その結果を得るために

とても努力をしている、

あるいは、

つらい思いをしているのかもしれない。

 

でも、それを表に出さない。

なぜなら、それに価値が

あると思ってないから。

 

なんだったら、見せたくない。

そうやって、相手に与える

イメージをコントロールしている。

 

さんまさんなどは、

特にそうだろう。

面白ければいい。

 

どんなことがあっても、

笑いに変える。

 

 

いっぽうで、紳助さんのような人。

過程を重視する人は、

 

(ちなみに、結果を重視しないとは、

言ってない。むしろ、

結果を重視したうえで、

プラス過程も重視する。

 

ある意味では、紳助さんタイプの人は、

結果派と違った厳しさがあるかも

しれない)

 

きちんと途中を大事にする。

大事なのは結果だけではない。

 

その中で何が合ったか。

何を感じたか。

それに注目する。

 

「素敵やん」とか、

まさにピッタリのフィレーブだろう。

 

ひとつ言いたいのは、

どっちかってことはない。

 

だれしも、両方が存在する。

問題はその割合だ。

 

割合に応じて、

相手への態度を変える。

つまり、

「どうすれば相手のためになるか」

それを考えるのだ。

 

そうすることで、

相手の考えを先回りして

読み取ることができる。

 

結果として、自分自身の

 

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ためにもなるのだ。

 

 

まとめ

コインにオモテとウラがあるように、

ヒトにもおなじことが言える。

 

オモテがあって、ウラもある。

ふたつはひとつ。

 

どちらがまえで、

どちらがうしろか。

 

どちらでもあり、

どちらでもない。

 

オモテが厚い人もいる

ウラが厚い人もいる。

両方うすい人もいる。

いろいろだ。

 

あくまで「割合」の話だ。

環境で割合は変化する